2014年6月17日火曜日

ビリービン再訪(絵本誕生まで)


5月に教文館で2回「ビリービン」と「レーベジェフ」についてお話をする機会を得ました。「島多代の本棚 絵本は子どもたちへの伝言」展でのギャラリー・トークです。そして、それは、私としてみれば、ビリービンとレーベジェフ再訪というか、再発見の機会となりました。当日、お話しできなかったことも含めてここにまとめることにしました。

  第1回目はビリービン。
 ざっくりとした生涯と作品は把握しているつもりだったのですが、さらに「へえ」とか「ほお」とか「だからなのか」とか「それにしても」とひとりごちながら、あらためて人となりや作品を知っていくこととなりました。トークのテーマは「ビリービンからの伝言」としました。展示会のテーマにかけたのですが、短い持ち時間(30分)だからこそ、テーマを設けて内容を収斂させなくては…との願いもありました。

 

【ビリービン絵本誕生まで】

今回のトークの準備では、09年の島多代氏の講演会でとったメモにあった「全ては関連している」という言葉が指針となりました。その絵本なり作家なりの経歴はもちろんですが、その背景、周辺を知るということですね。準備の時間は限られていましたし、できる範囲ででしたが。

 
イワン・ビリービン(☆)
まずは、歴史的背景のおさらいです。ビリービンが生まれたのは1867年。活躍したのが1900年初頭~。このあたりは帝政崩壊前夜。1861年に農奴解放がありましたが、生活が変わらぬ農民たちの運動、労働者のストライキ、ナロード運動(人民の中へ)などが高まりを見せ、19世紀終わりには社会主義党の誕生、1904年に日露戦争がはじまり、それがますます人民の生活を苦しめ、05年には血の日曜日事件が起こり…そして1917年の革命へ。とんでもなく大きな歴史の変化の波。その中でビリービンは何を思って絵本を作ったのか、ということになります。 



さて、一方で、ロシアの絵本の歴史を資料でたどります。おおざっぱにいえばビリービンからその歴史が始まったという記述も多いですね。ロシア絵本の一番星ビリービンです。しかし、「それ以前」および同時期の絵本についても(もったいない!ので)ここでは触れたいと思います。




ポレーノワ画(※)
 『ロシア児童文学の世界』(国立国会図書館国際子ども図書館刊)によると、19世紀後半、それまでは一部の貴族のためだけに作られていた挿絵入り児童文学書が、印刷技術の発達もあり安価になり市場に流通するようになり、西欧の模倣翻訳絵本などが出回りましたが、内容的な「質」はあまり高いものではなかったようです。これを「大衆児童文学のブーム」の時代というようです。

 しかし、これに対抗して、V.ヴァスネツオフ(18481926)、エレーナ・ポレーノワ(184198)、そしてエリザベータ・ビヨーム(18431914?)などが芸術性の高い絵本を発表しています。ヴァスネツオフは「移動展派」(ペテルブルク美術アカデミーに対抗する写実主義の画家たち、移動展覧会を各地で開く)の画家です。ビヨームは影絵作家としても活躍した女流画家です。




眠り姫(★)美しい!
  その中でもヴァスネツオフは、ビリービンに多大な影響を与えたようです。神学校を出、ペテルブルク美術アカデミーに入りますが移動展派に入り、最初は風俗画や版画で活躍、後にパリに留学、帰国後はロシア昔話や「ブイリーナ」(英雄叙事詩)を精力的に描きますが、1880年代からは宗教画を描くようになります。そして、1899年に開いた個展でビリービンが出合い衝撃を受けたのが「三勇士」という作品だということです(『カスチョール』8号より)ビリービンはこの絵との出合いを機に中世ロシア、昔話の世界に目覚めてゆくことになるのですね。


ヴァスネツオフの画集を見ていると、昔話の絵は神秘的でロマンにあふれ確かに魅力的です。壮大さを感じさせる空間描写など、お話の世界の広がり感じられるし、ひいてはロシアの国の雄大さを表現しています。そしてビリービンに影響を与えたという「三勇士」。勇士たちは凛々しく、馬たちの力強いいななきが聞こえてきそうです。ひとことでいえばかっこいい、です。背景には広大なロシアの草原と空が広がります。この草原を吹き抜ける風がビリービンのロシア魂に火をつけたんですね。ただ、描かれた当時はこの一連の昔話系の絵画は、移動展派らしからぬってことで評価されなかったようですが。


「三勇士」(★)雄々しい!
さてさて、ビリービン本人がその「三勇士」に出合うまでの道のりです。まず、1867年、法律家の家に生まれたという資料と医者の家に生まれたという資料があり…。ただ、本人は法律を学ぶために大学に入ったようなので、法律家に軍配でしょうか。医者にしても法律家にしても身分のある知識層出身です。(そしてこのことは、ビリービンを考える上でとても重要だということが今回あらためてよくわかったのですが)幼いころから絵を描き続け絵画教室に通い、そして、大学時代にドイツに留学します(意外に短くて2ケ月だそう)。ユーゲント・シュテイル「現場」に身を置き、その影響をおおいに受けます。



余談ですが、このドイツ滞在中、調べてみたら実はあのスイスの絵本画家エルンスト・クライドルフ!もドイツに滞在していたことがわかりました。どこかで、二人はすれ違っていたかもしれない…。これは私にとってちょっとドキドキするような発見でした!ですが、ギャラリー・トークの時間は短いので、もちろんそんな話はとても挟みこめる余裕はありませんでしたが。



レーピン「ヴォルガの船曳き」
 それで、ビリービンは帰国後(1898年)、イリヤ・レーピン(18441930)に師事します。実は、素人的見地から、ちょっとまって、レーピンといえば写実性・反美術アカデミーの移動展派!ドイツでユーゲントシュテイルの影響を受けて帰ってきたビリービンお坊ちゃん?がなぜレーピンに師事を仰ぐのか…とちょっと思ってしまったのですが、そんなことは思ってはいけない、のですね。ひとことでいえば、偉大なるレーピン先生、ということなのだと思います。素晴らしい師のもと、ビリービンは必死で絵の創作にはげみ、写実表現の腕を磨きます。(資料によると、その後レーピンは、美術アカデミーに戻ってきたそうです。)そしてビリービンは、この流れでレーピンと親しいヴァスネツオフの作品と出合い、本人とも会う機会を得ています。



  そして、このあたりで、ロシア芸術シーンに、アンチ移動展(末期)派の「芸術世界派」が登場してきます。ビリービンもその仲間となります。「芸術世界」とは雑誌の名前で、当時の西欧美術を取り入れつつ、18世紀美術の復興を目指したこの芸術運動はバレエの舞台美術(デイァギレフ率いるバレエ・リュスのパリ公演の成功:ニジンスキーとアンナ・パブロワの公演なども)や装丁などにも及びます。




ベヌア画(※)
ここで、ちょっと「芸術世界」派での代表的な画家といわれているアレクサンドル・ベヌアについて触れておきます。彼が作った「アーズブカ」というロシア語のアルファベット絵本の美しさといったら…!!溜息ものです。




かくして、ビリービンは、この「芸術世界」の挿絵の仕事、そして展覧会での昔話のイラストが目にとまり、1901年~03年にかけての怒涛の6作の絵本出版にこぎつけるわけなんですね。





参考文献:
※『ロシア児童文学の世界』(国立国会図書館国際子ども図書館)
『カスチョール』8号(カスチョール)
★『ヴィクトル・ヴァスネツォフ(18481926)画集』 (大画家シリーズ)露版
『イワン・ビリービン 生涯と創作画集』露版
『ソビエトの絵本1920-1930』(リブロポート)
『スイスの絵本画家 クライドルフの世界』(Bunkamura
『絵本の歴史カレンダー 2014イワン・ビリービン』(東京子ども図書館)


ロシアの絵本・カランダーシ

2014年1月19日日曜日

動物に服を着せること…ラチョフの挑戦


 
どちらも人間のよう
ラチョフが描く服を着た動物たち。
動物ですが人間くさい。でも、はらりと服を脱げば、あっと言う間に4脚歩行でどこかに逃げていきそうな動物としてのリアルもしっかり持っている。(後年は軽快な表現になっていったようですが)リアルすぎて、「挿絵のこの狼はこのうさぎを次の瞬間食べるかもしれない」なんて思ったり。そんなぞわぞわとした緊張感もありますね。

 

さて、
1930年代後半からは社会主義リアリズム表現以外認められないなくなった時代に突入するわけですが、もともと写実的な動物画を描いていたラチョフですから、大きな影響はなかった。…と思っていましたが、そんなことはなかったようですね。

 

第二次大戦後、復員したラチョフは、ある日、動物民話の挿絵の依頼を受けます。動物民話とは、もともと動物そのものの特性をいかして作られたものではなく、動物に人間性を投影したお話です。これを表現するために、ラチョフは初めて動物に服を着せてみたそうです。服を着せたとたん、動物たちは動物でありながら人格をもった人間のような存在となり民話の世界でいきいきとその役割を果たし始めました。ラチョフにとってこれは大きな発見であり、新たなる境地への第1歩だったのです。

 

動物表現のリアルさ
でしたが、でしたが、
出版社はこの挿絵の採用に数か月も「待った」をかけたそうです。ラチョフは民族性や職業や階級や貧富の差などを服装でそれこそリアルに表現しましたから、挿絵の動物たちには人間社会が色濃く反映され、その動物たちが「社会的な存在」として体制批判を表現しているように見えるのでは?と思われたのが原因だったのです(参考:「カスチョール21号」)

 

そのような状況であっても、ラチョフは服を着せる方向性を変えませんでした。動物に服1枚着せること、それは、その時代、覚悟のいる挑戦だったんですね。「私は昔話の本質‐動物が、同時に性格の特徴や人間関係に対する評価をも伝えるという本質を描きたいのです。私は何よりもこのことに惹かれています」(「カスチョール11号」)

 

そう、そう、
ラチョフはとりわけ動物民話の挿絵を描くことを喜びとしていました。動物と民話と…。この二つは、大自然の中、母親と離れ祖母と暮らしたラチョフの少年期の心を育んだ、ある意味、大切な友人とも、教師ともいえるような、そんなとても身近で大切な存在でしたね。動物は間違いなく、そう。民話についても、きっと、たぶん、そう、だと思っています。

 

スタイリッシュ?
もちろん、私はラチョフのすべての作品を知っているわけではないのですが、民話以外のお話の挿絵もいくつか見たことがあります。風刺のきいたなかなかスタイリッシュな動物たちが登場する挿絵絵本なども描いていますね。それはそれでとても素晴らしく魅力的です。でも、ラチョフの真骨頂はやはり動物民話画にあるといえるのではないかなと思っています。

 

「わたしは動物の絵をかくのが大好きです。わたしは動物に洋服を着せたり、ステッキを持たせたりと、人間のようなイメージを重ねてみるのが好きだからです。キツネにはずる賢さ、クマには人の良さなど…。そうした想像をしながら絵をかくと、楽しくて、楽しくて時のたつのを忘れてしまいます。…」(学研ワールド絵本224号「ねことつぐみとおんどり」あとがきより)

 

「楽しくて、楽しくて」ですか。それはよかった!


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 ラチョフ画「うさぎのいえ」
 ロシアの絵本・カランダーシ

2013年9月16日月曜日

動物挿絵画家ラチョフの誕生


 

「芸術新潮2004年7月号」より
久ぶりに「芸術新潮2004年7月号」の登場です。この号の中には、「絵本革命の同志たち」というくくりがあるのですが、その中で、動物絵本の達人として、チャルーシン(1901-1965)という画家を紹介しています。リアルな動物描写についても言及していますが、構図、テキストの配置などの「都会的な研ぎすまされたセンス」(本文より)は、ロシアアヴァンギャルドの影響を抜きには考えられないとあります。

さて、さて、このチャルーシンと「てぶくろ」(福音書店刊)やカランダーシ刊の「うさぎのいえ」の画家ラチョフの関係はいかに?・・・
今回は以前にも登場しましたが、主に『カスチョール』というロシア児童文学の研究雑誌の11号のラチョフ自身が語る「私が画家になったわけ」と21号の「E・ラチョーフ描くふたつの「てぶくろ」をめぐって」という記事を参考にさせていただきました。あまり文献のない中、これらの記事は大変貴重だと思います。そんなわけで、私自身、学びつつ動物挿絵画家ラチョフの誕生の経緯などご紹介できればと思います。くわしくお知りになりたい方は是非「カスチョールの会」さんhttp://www.koctep.net/へ。バックナンバー販売もあるようです。


はい。話を戻します。で、ラチョフなんですが、前述のチャルーシン、そしてあのレーベジェフhttp://lucas705karandashi.blogspot.jp/2012_05_01_archive.htmlの影響を強く受けたようです。確かに、下の図のように1930年前半のラチョフの作品は、チャルーシンの作品にとてもよく似ています。対象(動物)を写実的に描き、構図はデザイン性が強いです。両者の絵を見て、ラチョフは「私はその独自の美しさに魅了され、小さな本の絵もまた本物の芸術でありうるということを理解しました。私はレーベジェフから直接教えを受けたわけではありません。けれども、子どもの本の挿絵に対して本物の芸術に対するようにすべきだと、絵をもって私を悟らせてくれたのはレーベジェフだったのです」(「カスチョール誌11号」より)と語っています。

 
 
「幻のロシア絵本1920年代-1930年代」(淡交社)よりラチョフ画
ラチョフは、最初子どもの本の挿絵画家を目指していったわけではなかったようですが、依頼される仕事の中で、子どものための、しかも動物を描く仕事が来ると大変喜びを感じ、「これだっ!」と方向性がはっきりとしていったようです。

幼いころ、父を亡くしたラチョフはひとりぼっちでシベリア東部のユージノの祖母の家に預けられます。大自然の中、多くの動物たちがいつも周りにいました。ここでの暮らしは、少年の心をわくわくさせる新鮮な驚きに満ちたものだったようで、ラチョフは「まるでおとぎの国のように思いだされるのです」(カスチョール11号誌より)と後に懐かしんでいます。もちろん、母と離れているさびしさはあったとは思いますが。 

しかし、祖母の死後、母の元に戻るのでこの自然豊かな生活には別れをつげることになります。それが、美術師範学校や美術大学で学んだ後、今度は絵筆で懐かしく親しい存在であった動物たちを描く仕事を始めるわけです。動物の種類によってはその習性や匂いや手触りまで覚えていたはずです。絵筆でかつての親友?たちを紙の上に蘇らせることは、少年時代の楽しかった気持ちを呼び覚ましてくれたかもしれません。
 動物の骨格や毛並みや目つきまでとてもリアルに表現することで有名なラチョフ。剥製や動物園での観察スケッチの修練という技術的裏付けもあってのことですが、何よりも少年時代の経験から「心身を通して動物を真に知っていた」ことは大きかったでしょう。
 
さて、ラチョフが写実的な表現を用いて挿絵画家として活動し始める頃、1930年代後半から~1950年前半それは、「社会主義リアリズム」表現だけが許される時代と重なります。「絵本革命の同志たち」が追放され、処刑され、弾圧された時代が始まるのです。そして、絵本革命の旗手、担い手であったレーベジェフの作品からは輝きが失われ、「生きながらに葬られた」時代。では、ラチョフはしかたなく、写実的な表現を用いていたのでしょうか。
 

「ラチョフ動物民話挿絵集」より
それについては、当時の代表的動物挿絵画家のラチョフ、そしてチャルーシンは、芸術を学ぶ時代に前衛的な「新しい」表現技法の洗礼を受け、ラチョフについては最初大いに実践もするも、結局はなじめなかったと語っています。「二人はもともと対象物の具体性、その生の美しさに執着を感じる、写実派の画家だったと言えるだろう」(「カスチョール誌21号」より)ですから、レーベジェフのように表現を変えなくてはならないような過酷な状況ではなかったということになります。













 ラチョフ画の「てぶくろ」(初版年)、またレーベジェフ画の「しずかなおはなし」(初版?50年代前半のような)もこの写実主義の時代に生まれた絵本です。その当時の子どもたちに愛され、今でも愛され続けています。それは、ラチョフもレーベジェフも、高い水準の技術力があったこと、精一杯子どもたちに最善のものを届けたいという思いで、真摯に創作に取り組んだことの結果であることは間違いないでしょう。


絵本革命の輝く時代の後のまるで光りの消えたような時代。ラチョフはそんな時代に子どものための挿絵画家として歩み始め、だんだんと認められてゆきます。その後、1945年に4年間の兵役から戻った後も、変わらず動物画の仕事を続けます。そして、ある日、動物の民話の挿絵の仕事に出合います!

2013年5月10日金曜日

ラチョフ画絵本『うさぎのいえ』発行まであと少し!

 










久しぶりにこのブログを書きます。

昨年の夏の終わりころから、私は絵本制作の準備にとりかかりましたが、実は、それはまた、愛犬の最後の日々と重なりました。そして、別れ。喪失感。何かを作り出してゆく作業があったことで私はきっと随分救われたのだと思っています。
 
1155円(税込)
絵本のタイトルは『うさぎのいえ』。エフゲーニー・М・ラチョフの絵本です。カランダーシ初めての出版で、525日発行予定です。企画から全てを何とかひとりでやってきました。そして、今絵本は印刷段階に入り、カランダーシとしては一冊でも多く販売するための努力をしなければという段階。これまた、力不足に打ちのめされながら、手探りの日々は続いています。 
 
ラチョフといえば、だれしも福音館書店の『てぶくろ』をすぐに思い浮かべることだと思います。ほかにも『もりのようふくや』『マーシャとくま』などもよく知られていますね。後に私は、それまで知らなかったたくさんのラチョフの挿絵に原書で出合う機会を得たのですが、もう、嬉しくて。 
 
ラチョフ(19061997)は、シベリヤのトムスクで生まれ、父親を早くに亡くし、歯科医の母親のもとを離れ、ユージノというタイガとステップの間にある地方の祖母の元で暮らします。自然の中で、動物、鳥たちの存在を身近に感じながら成長しますが、祖母の死によりふたたび14歳で母の元に戻ります。1924年にクバン美術師範学校に入り、みっちり技術的な基礎を学びます。その後、キエフ美術大学へ進み、挿絵の仕事を始めます。
の絵本と出合い、魅了されたと言っています。「私はレーベジェフから直接教えと受けたわけではありません。けれども、子どもの本の挿絵に対して本物の芸術に対するようにすべきだと、絵をもって悟らせてくれたのは、レーベジェフだったのです」(カスチュール11号)
 
しかし、一方1936年プラウダ紙によるレーベジェフ批判記事について「挿絵画家としての私の運命に決定的な影響を与えた」(カスチョール29号)として記事への肯定の意見も述べている。これはレーベジェフの絵本作りの姿勢に敬意を抱きながらも、対象の描き方、表現の仕方は相いれないねという理解でいいのだろうか。ラチョフも一時期「新しい」絵の表現に傾倒した時期もあったようですが、結局リアルに対象を描くことに戻ります。そして、やがてラチョフは、挿絵の登場動物に洋服を着せ始めるのです。(そのことについてはまた別の機会に) 
 
ラチョフの絵は、絵本『うさぎのいえ』の命です。もともと動物民話集の中にあったひとつのお話を選んで一冊の絵本に仕立てました。レイアウトを考え、「こうしよう!」というところまでいくのに結構試行錯誤がありました。ただ、試行錯誤をしたからといってそれは何の価値があるわけではありません。出来上がったもの、それが全てです。
 
お話は、もともとラチョフが挿絵を寄せていたカピッツア氏の再話がもとになっています。お話の中の繰り返し部分を楽しんで、じっくり読んだあとは、劇遊びなども楽しいのではと思います。是非、次々登場する犬や狼や熊、そして鶏になりきって読んだり、演じたりしてほしいなと思います。 
 
 現時点、いろいろな思いが胸を去来しておりますが、ラチョフの新しい絵本を世に出せること、この事実にのみフォーカスすれば、本当に滋味深い人生の贈物だ!!と感謝しかないのです。
 
 もうすぐ、発行。よろしくお願いいたします。
 
http://karandashi.ocnk.net/    (ネットショップ)
http://karandashi.jp     (出版)


 

 

2012年9月26日水曜日

子どもたちへ-マヤコフスキーの思い

ロシア絵本黄金期を語る上で、「同志」ウラジミール・マヤコフスキーという詩人を登場させないわけにはいかないでしょう。「「私の革命-ウラジミール・マヤコフスキーは、1917年の10月革命をそう呼びました。ロシア革命ののものを生き、自分のこととして語ることができた、数少ない詩人です」(芸術新潮2004年7月号)

芸術を学んだマヤコフスキーはまた、「ロスタの窓」の描き手としても大活躍しました。「ロスタの窓」、それは手描きのプロパガンダイラスト新聞。このポスターをコマ割りのように4から14に分割して描く方法はマヤコフスキーの功績だそうです。

「ロスタの窓」(コンタクトクリチューラ社)という本が2010年にロシアで出版されました。(上の自画像と下のポスターイラストはそこから転載しました)掲載作品は総じて、政治的・社会的事象を抽象化して短いテキストと一緒に表現しています。大変わかりやすく風刺がきいていてインパクトがあります。きっと多くの人々に強烈な印象を残したでしょう。全作品を通して赤色で表現されているのはたぶん労働者、市民だと思われます。見る人の側にも立ち、まさに呼びかけているような印象です。このような「ロスタの窓」だけの画集のような書籍が今ごろ発行されているということは、その芸術性にロシアで注目が集まっているからなのでしょうか。

そのマヤコフスキーが力を注いだのが、子どもたちへの詩だったんですね。しばしば子どもたちのために朗読会を開き、こういう詩を書くことに熱中したというのです。「火のお馬」「いいことってどんなこと、わるいことってどんなこと」「海と灯台の私の本」などは絵本になり現在日本でもその詩の世界に触れることができます。

「海と灯台の本」では子どもたちに「行く手を照らす灯台のようであれ」と伝えています。この絵本は「ソビエトの絵本」(リブロ)の表紙にもなっており、ロシア絵本黄金期を語る際に必ず代表的な絵本として登場します。ダイナミックでデザイン性にも優れた絵は大変魅力的です。で、ありながら、有名なこの素晴らしい絵の描き手であるポクロフスキーという画家が一体誰なのかわかっていないというのです。それこそが、このアヴァンギャルド弾圧の時代を象徴する事柄であると「海と灯台の本」(新教出版社)あとがきでは述べています。

さて、マヤコフスキーですが、自らは37歳でピストル自殺をする詩人が一体子どもたちに何を伝えようとしたのでしょうか。それらの子ども向けの詩は、新しい社会を切り開いていく子どもたちへのメッセージ、遺言のようにも読むことができます。詩人は理想社会への願い、思いを子どもたちに託したのです。

それにしても、なぜ、マヤコフスキーは死ななくてはならかなったのか。その革命詩人は、「私はすべて作られたものの上に虚無(ニヒル)を置く」と語り、終生の愛人のほかにも多くの女性にかこまれ、抒情詩500数十編、叙事詩19編、詩劇7編、映画脚本9編、おびただしい数のエッセイ、評論などを残しました。

自殺について、「マヤコフスキー選集Ⅲ」(飯塚書店)の中で関根弘氏は「根本のところは、アヴァンギャルド芸術と社会主義リアリズムの対決、アナーキズムとボルシェビイズムの対決の帰結点ではなかったであろうか」としています(難しいな)

 革命詩人マヤコフスキーは、美男子で芸術家でニヒリスト。敵も多かったようです。他殺説もあるようですし。でも、何より、ひたひたと忍び寄る過酷な時代への兆しにその鋭い感性の耐性が脅かされていたことは間違いないでしょう。


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「火のお馬」
詩:マヤコフスキー
ロシアの絵本カランダーシ


2012年8月15日水曜日

映画と絵本。コナシェーヴィチ

「バスケットの中のねこ」1929
ウラジミール・コナシェーヴィチ(1888-1963)。
「芸術新潮2004年7月号」では、黄金時代の「もうひとりの巨匠」と紹介されています。そう、ロシア絵本黄金期を牽引したレーベジェフとまさに時代のダブルセンターをつとめた絵本作家です。新しい表現力で目を見張らせたレーベジェフとは異なり、コナシェーヴィチの絵はどこか懐かしさを感じさせるディテールにこだわった描き方をしています。そう、彼の出目はビリービンと同じ「芸術世界派」なんですね。

「子どもはリアリストである。それも筋金入りの。子どもはモノを正確の、すべての特徴をもらさず描きこみ、それと同時に単純にわかりやすく描くように要求する」(「幻の絵本1920-1930年代」淡交社より)と彼自身が述べていますが、なるほど正確さと具体性に力を注いだ表現が特徴です。いいかげんなデフォルメなどもちろん、「子どもだまし」を最も嫌ったのだと思います。で、画風は異なりますが、コナシェーヴィチは、もうひとりのウラジミール、レーベジェフを物事の本質をとらえ表現する作家として認めて評価していました。


「電話」1936
レーベジェフがマルシャークとコンビを組んで名作を次々と生み出したように、コナシェーヴィチにはコルネイ・チュコフスキー(1882-1969)というよき相棒がいました。でも、コナシェーヴィチの代名詞ともいえる絵本「火事」はマルシャークとのコンビで生まれたんですね。この絵本は留守番をしていた女の子が火事を出してしまうのですが、消防隊がきて火を消し、飼い猫も助けてくれるというハラハラドキドキ、緊張感が半端ない内容。その緊迫感あふれる展開をコナーシェヴィチは「映画技法」を用いて表現しました。


「火事」1932
「映画そのものの様式、そのダイナミズム、局面の急速な交代、移行の大胆さが、このころ絵本に入ってきた」(「ソビエトの絵本1920-1930」リブロより)とあるように、つまりは映画のワンカットを切り取ったようなページ絵がどんどん展開していくということなんですね。コナシェーヴィチの正確な表現が、「あたかも映画のような」絵本作りを成功させていると思います。最初はストーリーを追って、2度目はゆっくり細部を見る。そんな映画みたいな絵本の楽しみ方ができますね。


1本の映画、1冊の絵本。どちらもいかにして物事やお話を「実際あったもののように」表現し伝える媒体という見方をするならば、共通点があるという考え方ができますね。同じ土俵で考えたことはなかったのですが、映画の表現を絵本に積極的に取り入れるという視点が大変興味深いです。しかも、映画は絵本よりもずっと後で出てきたものです。そのように新しいものに刺激を受け、絵本制作にいかそうとチャレンジし、実績を残し、絵本の革命の一翼を担い活躍したコナシェーヴィチ。さすがです!


そして私は多くの作品を知っているわけではないのですが、その作風にとても魅力を感じています。ペンで縁取るラインからは温もりを、また色彩の選び方に優しさや品位を感じます。プラス、何んといってもちゃめっ気のようなものも感じられるのがいいですね。きちんと描かれていながら、気負いを感じさず親しみやく仕上げられている。子どもに渡す絵本にとって、それはとても大事なことです。読者へ優しい声で直接語りかけるような、そんな絵本だと思います。味わい深いです。できるならどの絵本も見てみたいですね。



しかし、しかし、やがては弾圧の黒雲がやってきて、コナシェーヴィチを追い込みます。生命は守られましたが、多くの仲間が犠牲になり、思ったように絵を描けない日々を耐えなくてはなりませんでした。そして、残念ながらそれは映画ではなく現実でした。先が見えないストーリー。そして、暗闇で覆い尽くされた時代のページをめくるのには大変多くの時間が必要だったのです。


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「プーシキン民話集/
ブィリーナ(英雄叙事詩)」5040円
ロシア絵本「カランダーシ」


「入り江のほとり」3150円













2012年7月13日金曜日

レーベジェフとはりねずみの背中

「幻のロシア絵本1920-30年代」(淡交社)より
ロシア絵本の黄金期の旗手、レーベジェフ。「絵本の王様」とも呼ばれていたとあります。その時代の多くの素晴らしい絵本は世界でも高い評価を得、パリに亡命していた大詩人マリーナ・ツヴェタワーはく「ロシアの絵本は世界でいちばんです」と言っています。

しかし、輝いていた青空に黒雲がたちこめてきます。「スターリンの独裁政治のもと、1932年、すべての造形グループは解散を命じられ、唯一許されるのは「社会主義リアリズム」だという悪夢のような状況を迎えるのです」(「芸術新潮2004年7月号」)

「カスチュール29号」
(カスチョールの会)
つまり「…絵と実物を正確に一致させ、内容をプロレタリア階級に向けて「正しく」方向づけることが、芸術に許される唯一の手法となった」(「幻のロシア絵本1920-30年代」淡交社)ということなのです。それでも最初、厳しい目は「大人の」芸術部門に向けられていたのですが、ついに1936年1月全連邦レーニン共産主義青年同盟中央委員会において児童図書に関する協議が行われ、同年3月1日付けの政府機関紙の社説でレーベジェフは「汚しや・三文絵描き」と批判されるにいたり、以降、大変残念なことに多くの作家が逮捕され、また銃殺されてしまうのです。

レーベジェフは捕まることはなかったのですが、その作品からはつらつとした輝きは完全に奪われてしまいました。(一番上の画像)生きながらに葬られたとも言われています。

[しずかなおはなし」福音館
そして、レーベジェフは、そんな長い暗いトンネルのような時代のさなかから、やがて再び自由な表現が許される1950年代以降まで、絵筆を持ち続け、マルシャークと共には『森は生きている』や『しずかなおはなし』などの作品を残しました。しかし、あの黄金期のような絵の表現はもう戻ってくることはありませんでした。そしてマルシャークは1963年に、レーベジェフ自身は1967年にその生涯を閉じます。


レーベジェフ自身の心のうちを知るすべはありません。雑誌『カスチョール29号』(カスチョールの会刊)というロシア児童文学の研究専門雑誌では、レーベジェフ生誕120年ということから特集が組まれていました。大変詳しくレーベジェフの生涯や時代背景のことなど書かれており、大変参考になったのですが、その中で、レーベジェフの父親が機械技術師であったこと、少年時代にボクシングやサッカーで身体的鍛錬をしていたこと、解剖学やデッサンの修練を積んでいたことなどを知りました。

困難の中で、制約の中で絵本を描くことを続けたマルシャーク。逮捕、銃殺、そして亡命や、絵筆を折る、自殺など、多くの仲間が創作の場から姿を消していった中で、絵本を作り続けることをやめなかったレーベジェフ。これは私の想像ですが、そのひとつの背景には、地道に技術を用いてもの作りをしていた父親の姿を見て育ったこともあるのかなと思いますし、また、生きてゆく根本部分、すなわち身体的なタフさがあったこと、そして、これは大きいと思うのですが、あらゆる表現に対応できるだけの技術を有していたこと、などもあるのかなと思いました。また描き続けることに理由づけは必要ないのかもしれません。それが彼の仕事であり生きることそのものだったと考えるならば。


そう、そして、レーベジェフが生涯描き続けたことで、後年、私たちはロシア絵本の黄金期の「はじまりと終わり」を一人の作家の作品を通して歴然と知ることになります。今年は生誕120年。そんなに昔の話ではないということにあらためて気づかされます。

マルシャークと作った「しずかなおはなし」(福音館書店)という絵本があります。はりねずみの親子はしずかにくらしていましたが、オオカミに見つかってしまいます。はりねずみはとげを逆立てて、じっとじっとまるくなって難を逃れます。このはりねずみの姿にレーベジェフを重ねるのは勝手なことかもしれません。当のはりねずみに何か尋ねてみましょうか。でも、あいにく最後の最後、裏表紙で、はりねずみは、まるまって後ろを向いており、何も答えてはくれないのです。でも、その背中にはたくさんの「とげ」があることを忘れてはなりません。


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ご注文は
ロシア絵本「カランダーシ」

「ラチョフ動物民話集」
現在損保ジャパン東郷青児美術館にて
「ちひろと世界の絵本画家たち」にて
ラチョフの原画も展示中。