2012年7月13日金曜日

レーベジェフとはりねずみの背中

「幻のロシア絵本1920-30年代」(淡交社)より
ロシア絵本の黄金期の旗手、レーベジェフ。「絵本の王様」とも呼ばれていたとあります。その時代の多くの素晴らしい絵本は世界でも高い評価を得、パリに亡命していた大詩人マリーナ・ツヴェタワーはく「ロシアの絵本は世界でいちばんです」と言っています。

しかし、輝いていた青空に黒雲がたちこめてきます。「スターリンの独裁政治のもと、1932年、すべての造形グループは解散を命じられ、唯一許されるのは「社会主義リアリズム」だという悪夢のような状況を迎えるのです」(「芸術新潮2004年7月号」)

「カスチュール29号」
(カスチョールの会)
つまり「…絵と実物を正確に一致させ、内容をプロレタリア階級に向けて「正しく」方向づけることが、芸術に許される唯一の手法となった」(「幻のロシア絵本1920-30年代」淡交社)ということなのです。それでも最初、厳しい目は「大人の」芸術部門に向けられていたのですが、ついに1936年1月全連邦レーニン共産主義青年同盟中央委員会において児童図書に関する協議が行われ、同年3月1日付けの政府機関紙の社説でレーベジェフは「汚しや・三文絵描き」と批判されるにいたり、以降、大変残念なことに多くの作家が逮捕され、また銃殺されてしまうのです。

レーベジェフは捕まることはなかったのですが、その作品からはつらつとした輝きは完全に奪われてしまいました。(一番上の画像)生きながらに葬られたとも言われています。

[しずかなおはなし」福音館
そして、レーベジェフは、そんな長い暗いトンネルのような時代のさなかから、やがて再び自由な表現が許される1950年代以降まで、絵筆を持ち続け、マルシャークと共には『森は生きている』や『しずかなおはなし』などの作品を残しました。しかし、あの黄金期のような絵の表現はもう戻ってくることはありませんでした。そしてマルシャークは1963年に、レーベジェフ自身は1967年にその生涯を閉じます。


レーベジェフ自身の心のうちを知るすべはありません。雑誌『カスチョール29号』(カスチョールの会刊)というロシア児童文学の研究専門雑誌では、レーベジェフ生誕120年ということから特集が組まれていました。大変詳しくレーベジェフの生涯や時代背景のことなど書かれており、大変参考になったのですが、その中で、レーベジェフの父親が機械技術師であったこと、少年時代にボクシングやサッカーで身体的鍛錬をしていたこと、解剖学やデッサンの修練を積んでいたことなどを知りました。

困難の中で、制約の中で絵本を描くことを続けたマルシャーク。逮捕、銃殺、そして亡命や、絵筆を折る、自殺など、多くの仲間が創作の場から姿を消していった中で、絵本を作り続けることをやめなかったレーベジェフ。これは私の想像ですが、そのひとつの背景には、地道に技術を用いてもの作りをしていた父親の姿を見て育ったこともあるのかなと思いますし、また、生きてゆく根本部分、すなわち身体的なタフさがあったこと、そして、これは大きいと思うのですが、あらゆる表現に対応できるだけの技術を有していたこと、などもあるのかなと思いました。また描き続けることに理由づけは必要ないのかもしれません。それが彼の仕事であり生きることそのものだったと考えるならば。


そう、そして、レーベジェフが生涯描き続けたことで、後年、私たちはロシア絵本の黄金期の「はじまりと終わり」を一人の作家の作品を通して歴然と知ることになります。今年は生誕120年。そんなに昔の話ではないということにあらためて気づかされます。

マルシャークと作った「しずかなおはなし」(福音館書店)という絵本があります。はりねずみの親子はしずかにくらしていましたが、オオカミに見つかってしまいます。はりねずみはとげを逆立てて、じっとじっとまるくなって難を逃れます。このはりねずみの姿にレーベジェフを重ねるのは勝手なことかもしれません。当のはりねずみに何か尋ねてみましょうか。でも、あいにく最後の最後、裏表紙で、はりねずみは、まるまって後ろを向いており、何も答えてはくれないのです。でも、その背中にはたくさんの「とげ」があることを忘れてはなりません。


_______________________________

ご注文は
ロシア絵本「カランダーシ」

「ラチョフ動物民話集」
現在損保ジャパン東郷青児美術館にて
「ちひろと世界の絵本画家たち」にて
ラチョフの原画も展示中。